「タダより高いものはない」
祖母がよく口にしていたこの言葉が、まさか東京のコンクリートジャングルのど真ん中で、私の喉元に冷たい刃物のように突きつけられることになるとは夢にも思いませんでした。
上京して2年。憧れの東京生活を手に入れるために私が選んだのは、敷金・礼金ゼロ、家具家電付きの「サブスク型賃貸」でした。初期費用は驚くほど安く、カバン一つで新生活を始められる手軽さは、当時貯金が底をついていた私にとって、まさに砂漠のオアシス、いや「神物件」に見えました。
しかし、退去の日が刻一刻と近づくにつれ、私はある一つの強烈な恐怖に支配されるようになったのです。
「これ、出る時にとんでもない金額を請求されるんじゃないか…?」
「入る時がタダだった分、出る時に全部むしり取られるシステムなんじゃないか?」
スマホで検索すればするほど溢れ出てくる、「退去費用 ボッタクリ」「高額請求」「原状回復トラブル」「監禁」といった不穏な文字。部屋の壁にある小さな擦り傷を見るたびに、心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。夜、備え付けの冷蔵庫のブーンという低いモーター音が、まるでカウントダウンのようにも聞こえてくる。
これは、目先の「安さ」に飛びつき、仕組みを理解しないまま契約書に判を押してしまった私の、恐怖と葛藤、そして法的根拠と事実確認を経て「真実」にたどり着くまでの記録です。
もしあなたが今、初期費用の安さに惹かれて家具家電付き物件を検討しているなら、あるいは退去を控えて不安に震えているなら、どうかこのページを閉じる前に私の話を読んでください。
あなたの「想定外の出費」と「眠れない夜」を、私が代わりに引き受けますから。
第1章:蜜の味と、深夜の検索履歴
「東京で、敷金礼金ゼロ?」ありえない幸運へのダイブ
2年前の春。地方から上京することが決まった私は、絶望的な現実に直面していました。
東京の賃貸契約にかかる初期費用の異常な高さです。敷金、礼金、仲介手数料、前家賃、保証会社利用料、鍵交換代…。普通のワンルームを借りるだけで、平気で40万円、50万円が飛んでいく。地方なら車が買える金額です。
「無理だ…東京なんて、選ばれた人間しか住めない場所なんだ」
手元の通帳残高は20万円そこそこ。親に頼ることもできない。そんな時にスマホの画面に現れたのが、その広告でした。
『初期費用数万円〜。家具家電付き。カバン一つで即入居』
それは、溺れる者にとっての藁ではなく、豪華客船に見えました。冷蔵庫も洗濯機もベッドも備え付け。カーテンすら買わなくていい。私は迷わず飛びつきました。「これで東京に行ける!夢が叶う!」その興奮ドーパミンで、契約書の細かい文字なんて、正直ほとんど目に入っていなかったのです。
忍び寄る影
快適な生活は続きました。しかし、退去が決まった1ヶ月前、ふとした拍子にSNSで目にした投稿が、私の平穏を完全に打ち砕きました。
「○○(似たようなサービス名)退去したら、清掃費とか修繕費で20万請求された。まじ詐欺。払わないと帰さない雰囲気だった。」
「家具の傷一つで新品交換代請求されるらしいよ。気をつけて。」
血の気が引きました。
慌てて部屋を見渡す。
ベッドの脚元、掃除機をかけた時にガンッとぶつけてできた小さな凹み。
フローリングにうっかり落とした化粧水のシミ。
壁紙にいつの間にかついていた、ポスターを貼った跡のような黒ずみ。
これら全てが、数万円、いや数十万円の請求書に変わる幻覚が見えました。
(どうしよう…初期費用が安かったのは、最後に回収するためだったのか? 私は「カモ」として育てられていたのか?)
深夜2時。私は布団の中で「家具家電付き 退去費用 相場」「国土交通省 ガイドライン 無視」といったキーワードを検索し続けました。検索すればするほど、悪い情報ばかりが目に飛び込んでくる。
- 「業者と揉めて裁判沙汰になった」
- 「納得できないけど、怖くて泣き寝入りして払った」
- 「消費者センターに電話しても解決しなかった」
「私も搾取されるんだ」
そう思うと、部屋の備え付けのテレビさえ、私を監視する監視カメラのように見えてきました。「なんであんなに安易に契約しちゃったんだろう…」
後悔の念が、重くのしかかりました。バカな自分を殴りたい。安いものには裏がある。そんな当たり前のことすら、どうしてわからなかったのか。不安で胃がキリキリと痛み、食欲さえ失せていきました。
第2章:疑心暗鬼の果てに見た「55,000円」の正体
震える声での問い合わせ
退去立会いの日が決まりました。私は意を決して、管理会社に電話をかけることにしました。ただ震えて待っているだけでは、精神が崩壊しそうだったからです。
「あの…退去時の費用についてお聞きしたいのですが…」
声が震える。相手は百戦錬磨の不動産業者。言質を取られないようにしなければ。私はボイスレコーダーアプリを起動し、臨戦態勢に入りました。
「はい、契約内容によりますが、何かご懸念ですか?」
電話口の担当者の声は、拍子抜けするほど淡々としていました。
「ネットで…その、高額なクリーニング代を請求されるって見て…私、少し床に傷をつけてしまって…」
恥を忍んで告白すると、担当者はPCのキーボードを叩く音と共にこう言いました。
「お客様のプランですと、退去時の事務手数料は一律55,000円(税込)です。通常の清掃費はここに含まれておりますので、生活上の細かな傷程度で追加請求することはございませんよ」
え?
「ご、ごじゅうごまんえん、ではなく、ごまんごせんえん、ですか?」
「はい、55,000円です。契約書にもその旨の記載がございます。もちろん、お客様が壁に穴を開けたとかでなければ、ですが」
契約書という「真実の書」の再確認
電話を切った後、私は部屋の奥底に放り込んでいた契約書ファイルを引っ張り出しました。埃を被ったクリアファイル。震える手でページをめくる。あった。重要事項説明書だ。
第○条 契約終了時の費用及び特約事項
『借主は、本契約終了時に解約事務手数料として金55,000円(税込)を支払うものとする。なお、通常使用に伴う清掃費用はこれに含まれる。』
書いてある。
はっきりと、書いてある。
私はその場にへたり込みました。
安堵と、脱力と、そして自分の無知さへの呆れが入り混じった、複雑な感情。
【重要】なぜ「高い」と言われるのか? 法的なカラクリ
冷静になって考えてみました。なぜネット上では「高い」「ぼったくり」と言われるのか?そして、なぜ55,000円なのか? ここには、YMYL(金銭・生活)に関わる重要な法的構造が隠されていました。
通常、**国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」では、経年劣化(普通に使っていて古くなった分)や通常損耗(家具の設置跡など)の修繕費は、「貸主(オーナー)負担」**が原則です。つまり、本来なら入居者が払う必要はないのです。
しかし、ここがポイントです。
私の契約には**「特約」がありました。
「初期費用(敷金・礼金)を0円にする代わりに、退去時に定額の清掃費(事務手数料)を借主が負担する」という特約です。これは、双方が納得して契約していれば有効**になります。
- 普通の賃貸の構造:
- 入居時に「敷金(家賃1ヶ月分)」や「礼金」「クリーニング代前払い」を払う(計20〜30万円)。
- 退去時は敷金から清掃費が引かれ、残金が返る。
- 家具付き・初期安物件の構造:
- 入居時は0円に近い(コストほぼゼロ)。
- その代わり、退去時に「固定の手数料(5.5万円など)」を払う。
トータルで見れば、むしろ安いかもしれない。
けれど、人間というのは不思議なもので、「最後にお金を払う」ことに強烈な痛み(損失回避性)を感じるのです。入居時の喜び(安さ)は2年経てば忘れ、退去時の痛み(出費)だけを鮮明に記憶する。だから「高い!」「最後に取られた!」という声がネット上で増幅されるのです。
55,000円。
確かに、普通の6畳ワンルームのクリーニング代相場(3〜4万円)よりは少し高いかもしれません。でも、家具家電のレンタル料や、初期費用の安さを考えれば、それは決して「ボッタクリ」と呼べるものではありませんでした。
※注意: これはあくまで当時の私の契約プランの話です。契約時期やキャンペーン、物件によっては「33,000円」の場合もあれば、広さによって変動する場合もあります。必ず、ご自身の契約書の「特約事項」を確認してください。そこにあなたの真実が書いてあります。
第3章:それでも罠はある。あなたが本当に警戒すべき「3つの地雷」
「なんだ、じゃあ安心だ。5万払えばいいんだ」
そう思ってブラウザを閉じようとしたあなた。ちょっと待ってください。ここでページを閉じると、あなたは本当に数十万円を請求される可能性があります。
55,000円で済むのは、あくまで**「ガイドラインに沿った普通の使用」**をしていた場合です。
私がリサーチし、不動産関係の知人から裏を取った話では、家具家電付き物件には特有の「地雷」が存在します。これを踏んでしまうと、定額プランの適用外となり、実費請求の嵐が待っています。
私が冷や汗をかきながら再確認した、3つの「即死トラップ」を共有します。
地雷1:家具家電の「破壊」は完全実費
これが一番怖いです。
建物(壁・床)だけでなく、**「借りているアイテム」**の数だけリスクが増えるのが家具付きの罠です。
- NG例(実費請求対象):
- テレビ: 酔っ払ってコントローラーを投げ、液晶にヒビが入った。(交換費用:5〜10万円)
- ベッド: フレームの上で飛び跳ねてスノコを折った。(交換費用:3〜5万円)
- 冷蔵庫: 霜取りをしようとしてアイスピックで突き、冷却管に穴を開けた。(交換費用:4〜6万円)
- カーペット: タバコの火を落として焦がした。(全面張替え:数万円)
「経年劣化」なら問題ありません。しかし、「過失(うっかり)」や「故意(わざと)」による破損は、容赦なく請求されます。
私は慌ててテレビの裏やベッドの下を確認しました。幸い、使用上の小傷程度で、機能に支障があるような破壊はありませんでした。もし液晶を割っていたら…と思うとゾッとします。
地雷2:短期解約違約金の時限爆弾
「嫌ならすぐ出ればいいや」
そう思っていませんか?
多くの家具付き物件、特に初期費用が極端に安いプランには、**「最低契約期間」**という縛りがあります。
「1年未満で解約したら、家賃1ヶ月分の違約金」
「半年未満なら、家賃2ヶ月分」
これを知らずに、「隣人がうるさいから3ヶ月で引っ越そう」とすると、
退去時手数料5.5万円 + 違約金14万円(家賃2ヶ月分) = 約20万円
が一撃で請求されます。
私は契約期間が2年を超えていたのでセーフでしたが、短期利用目的の人は契約書の「特約事項」を必ず確認してください。そこには小さく、しかし残酷な数字が書いてあります。
地雷3:残置物という名の「有料ゴミ」
「家具付きだから、自分の荷物は少ないし楽勝」
そう思って、自分で買ったカラーボックスやクッション、突っ張り棒、使いかけの洗剤などを「次の人の役に立つかも」と置いていこうとしていませんか?
絶対にダメです。
これらは全て「残置物(ゴミ)」とみなされ、高額な産業廃棄物処理費用を請求されます。
「親切心で置いていったのに!」は通用しません。プロの清掃業者からすれば、所有権の不明な物品は処分の手間がかかるただの厄介者です。
私は退去前日、自分が持ち込んだ全ての物を撤去し、入居時と同じ「備え付け家具だけ」の状態に戻すために必死になりました。
第4章:賢者の選択。不安を「確信」に変えるアクションプラン
退去の日。
管理会社の担当者が部屋に入ってきました。私は心臓が口から飛び出しそうなのを抑えながら、後ろをついて回りました。
担当者は壁を見、床を見、そして備え付けの冷蔵庫の中を確認しました。
ものの5分後。
「はい、特に大きな破損もありませんので、規定の事務手数料55,000円のみのご請求となります。後日振込用紙を送りますね」
あっけなかった。
あの眠れない夜はなんだったのか。あの恐怖の検索履歴はなんだったのか。
私はその時、深く理解しました。
恐怖の正体は「無知」であると。お化け屋敷も、仕掛けを知っていれば怖くないのと同じです。
もし、これから家具家電付き物件を契約しようとしている、あるいは退去を控えているあなたが、私のような無駄な不安を感じなくて済むように、今すぐ実行できる具体的なアクションプランを提示します。
【入居時やるべきこと】退去トラブルを防ぐ「写真撮影と証拠保全」
これは「転ばぬ先の杖」ではなく「最強の盾」です。
- 入居直後の「傷チェック」撮影
- 部屋に入った瞬間、荷物を解く前にスマホを取り出してください。
- 壁の傷、床の凹み、家具の擦れ。全て写真と動画に収めてください。
- 重要: 日付入りで保存し、可能なら管理会社に「入居時点でここに傷がありました」とメールを送ってください。これが退去時に「お前がやったんだろ!」と言われないための動かぬ証拠になります。
- 防水シーツとカバーの導入
- 備え付けのマットレスには、必ず自分で買った防水シーツ(数千円)をかけましょう。飲み物をこぼしても、寝汗をかいても、本体を守れます。
- これが「クリーニング代請求」を回避する最もコスパの良い投資です。
【入居中】「借り物」である意識を持つ
- タバコは絶対に室内で吸わない
- これは一発アウトです。ヤニ汚れと臭いは、通常の清掃費では落ちず、壁紙全面張り替え(10万円〜)を請求される正当な理由になります。
- 「換気扇の下なら大丈夫」も幻想です。ダクトに臭いがつきます。
【退去直前】立つ鳥跡を濁さずの最終チェック
- 「来た時よりも美しく」は不要だが、「空っぽ」にする
- ピカピカに磨き上げる必要はありません。通常の清掃費は55,000円に含まれているからです。
- ただし、「自分の私物」はクリップ一つ残さず持ち帰ること。
- 破損の事前申告
- もし壊してしまったものがあるなら、隠そうとせず事前に電話で相談しましょう。退去立会いの土壇場でバレるより、心証が良く、火災保険の「借家人賠償責任特約」が使える可能性などの相談に乗ってくれる場合もあります。
エピローグ:55,000円で買った「自由」
55,000円。
決して安い金額ではありませんでした。退去後の新しい生活のために、欲しかったブランドの椅子を一つ我慢することになりました。
でも、私はその請求書を、ある種の「感謝」と共に支払いました。
なぜなら、そのお金は、私がこの2年間、東京という街で、何の資産も持たずに「自分の城」を持ち、夢を追いかけるための**「自由への入場料」の精算**だったからです。
初期費用5万円でスタートできたおかげで、私は上京直後のチャンスを掴めました。家具を買わずに済んだおかげで、いつでも身軽に動けるという精神的な余裕を持てました。
その利便性の対価としての55,000円。
それは、ボッタクリでも詐欺でもなく、**「私の夢を支えてくれたシステムへの正当な報酬」**だったのです。
もしあなたが、退去費用の噂に怯えているなら、どうか安心してください。
ルールを守り、普通に生活し、契約書の仕組みを理解していれば、そこにあるのは理不尽な搾取ではなく、合理的な契約だけです。
恐怖は、部屋の暗がりにあるのではありません。
あなたの「知らない」という心の中にだけあるのですから。
さあ、まずはスマホのライトをつけて、部屋の隅を確認することから始めましょうか。
その光が、あなたの「自由」を守る第一歩なのですから。
